Novel

COMPLEMENT
16 Ignis Fatuus

 アネモネがリブレから得た忠告をそれほど重要と見ていなかった事は、ブラッドにとっても盲点だった。スハイツを捕虜として扱う事で取り敢えずの時間稼ぎはできたものの、布陣を敷き準備を整えるには、余裕が足りない。
「ブレイズ大佐、貴様近接戦闘CQBに自信は?」
 唐突なアネモネの質問の意図が分からず、ブラッドは驚き半分に答える。
「一応教練は一通り……いや、力加減しないで良いんだったらいくらでも」
「銃の方は?」
「銃はちょっと……的が木偶だったら……」
「大佐殿は少し銃を練習された方が良さそうだな。そちらには期待しないでおこう」
 明らかに戦力として頼る気でいるアネモネを前に、ブラッドはたじろぐ。本隊が来るのなら、こちらも師団で応戦するだろうと思っていたところへ、まるで対個人を強いるような目を向けられる。
「いや……閣下に進言するつもりっすよ……?」
 恐る恐る確認してみれば、アネモネは憮然とした表情を見せた。
「当然だ。我々の独断では動けない。閣下には私が進言しよう、大佐は殿下を拘束せよ。但し、くれぐれも丁重にな」
 直接の上官でないにも関わらず、自分より階級が上というだけで思わず命令に従ってしまったブラッドは、無意識に敬礼していた己に気が付いて呆れ果てた。
 アイザックの持つ最終決定権のすぐ下で割と自由に振舞えるはずの自分だが、やはり命令に従っている方が何も考えなくて良いので楽な気がしてならない。背を向けさっさとアイザックを探しに行ってしまったアネモネを見送って、ふと背後に佇むスハイツに視線を向けた。
「丁重にだってよ。なんで俺がお守りをせなならんのだ」
 嫌そうに呟く。スハイツは苦笑を浮かべながら肩を竦めて見せる。
「こうなりゃ洗いざらい吐いて貰うからな。エアドレイドの狙いは何だ? お前は何しに、誰とここへ来た?」
「どれから答えれば良いのかな」
「お前は何しに」
「お使い」
「聞いた俺が馬鹿だった」
 それ以上何も答えようがない事を知っていて、何故かそれを一番に訊いてしまった己の愚かさを悔いた。そんなものはスハイツの行動を見張っていれば、大体理解できる。眉間に皺が寄りそうになるのを必死で押さえながら、空室を探してスハイツを押し込んだ。
 数時間前にブラッドが留置され、問答を繰り返していたその部屋だった。取調べに使っていたから椅子も余っているし、机もあって丁度良い。
「おい、スハイツ。お前ここまで誰と来た? のらりくらりとしてるお前でも、流石にレブナンスまで一人ってこたないだろ。誰か他に――」
「それは私の事を言いたいのか? ブラッド・バーン・ブレイズ」
 スハイツに掴み掛かりながら問うと、彼は待ったとでも言いた気にブラッドの背後を指差した。薄っすらと視界に落ちた影が動き出す。
「馬鹿な弟だがエアドレイドうちの大事な公子だ、随分な挨拶をしてくれるねレブナンスの大佐。手を離してやってくれ」
「アベラルド!?」
 聞き覚えのある声に驚き、踏鞴を踏む。こんな場所にいるはずのない男だと内心叫びたくなった。
 褐色に黒い髪を垂らした青年、エアドレイドの第一公子アベラルド・トレンツ・エアドレイドが背後に佇んでいた。青い双眸がこちらを睨めつけ、ブラッドは混乱するなり勝手に侵入してきたエアドレイド第一公子に浴びせる一言を頭から追い出してしまった。
 あってはならない状況に呆気に取られたまま、スハイツから手を離す。アベラルドは紫の上着の裾を払いながら、スハイツに手を伸ばした。
「早く帰って来いと言ったはずだ、スハイツ。いつまで油を売っている」
「いやあ、そうするつもりだったんだけど。なかなか上手く行かなくてねえ、まさか兄さんに迷惑をかけることになるとは……」
 落ち着いた様子で手を借りるスハイツを一瞥し、ブラッドは己の方がおかしいのかと疑る。とりあえずスハイツを殴り飛ばしておくべきか、アベラルドに掴みかかっておくべきか、それともただ傍観しておいた方が良いのか、自分はどう動けば良いのか選択に困る。
「待て待て待て! 何でお前までここにいる、アベラルド! 何ちゃっかり密入国してんだ!」
「父王の目的は我々とは違う。それを伝えに来ただけだ。この私が、直接にだ」
「それはご苦労様――じゃなくて、好き勝手しやがって何考えてんだ、お前らエアドレイドは! 引き篭りらしく、大人しく国に篭ってろ、面倒な時に出て来んな!」
 当然のように告げたアベラルドは、ブラッドを見下すような視線を向けて言い捨てた。
「カルレス・トレンツの責任は私が取りに来た、と言っている。みなまで説明させる気か」
「――分かったよ、分かりましたよ! 閣下に取り次げば良いんだろ!?」
 あまりに横暴で理不尽な態度に苛立ちを覚えながらも、そこで逆らってはならないような気がしてブラッドは渋々従った。今ここで自分がスハイツから目を放して良いものか。アネモネの命令を考えるならアベラルドに従わず、アネモネの命令を全うするべきだが相手が相手である。
 アベラルドは部屋のパイプ椅子の一つを勝手に広げて腰掛け、懐から取り出した扇を広げた。
「心配せずとも逃げはしませんよ。逃げるつもりがあるのなら、最初からこんな危険区域に立ち入りはしません」
 低く放たれていた声色が、途端落ち着き機嫌良さそうに振舞う。この猫被りめと声に出さないよう、吐き捨てたい気持ちに駆られる。
 しかし胸中で思っていた事が筒抜けだったのか、アベラルドは意地悪そうに笑んだ上で蔑んだ。
「理不尽を命令という形で縛り付けるのが軍隊というものです。お分かりなら迅速に行動せよ。レブナンス総統にお目通りを願いたい」
「くっ、こんな横暴な司令官を持つエアドレイド国民に同情してやる――!!」
 こうなれば最終判断はアイザックに任せるほかない。本来なら一つ手順を後回しにしただけで、結果は上手く行くはずだった。自分の身勝手一つで妙な方向に転がりつつある現状を目の前に、ブラッドは悲鳴を上げたい気分を抑えながら部屋を後にした。
「さて、煩いのがいなくなったところで。スハイツ、予定通りに通信を流したのか」
 己が部屋のように寛ぎ扇を仰ぎながら、アベラルドは問いかける。温厚であるが穏便と称するには些か強引なところのある兄を目の前に、スハイツは気まずそうに頬を掻いた。
「ああ、まあ、こちらの通信兵が優秀ならとうに拾ってる周波数だと思うよ。長距離通信にしては、音質がクリアな事に違和感を持つ人がいれば良いんだけれど。これだけ電子が発達してるのに未だモールスを使ってる理由は案外これかもね。――さて、困ったな。閣下からしてみれば僕は既に帰されていてもおかしくない。ブレイズが捕虜にするとか言い出さなかったらどうしようかと思ったけど。でもブレイズも任務妨害で罰を受けるね、あれは」
「入れ替わりで来る予定だったのが、お前がグズグズしているからこんな事になるんだ」
「全てが盤上遊戯通りになると思っているなら、兄さんもまだまだだな」
 ぽつりと呟いて、慌ててそれを取り繕う。アベラルドの視線が背に突き刺さった。ちくちくと痛い棘のある言葉でもってスハイツを威圧しながら、アベラルドは続ける。
「何もかもが腹の探り合いだ。先に動いて隙を見せたら負ける」
「そのためには父さんも退いてもらうと?」
「なに、利用されていると思わなければ幸せなものだ」
「それで、軍は連れてきたの?」
 確認するように問うと、アベラルドは無言で圧倒した。押し黙るだけならまだ回答に詰まっていると取れなくもない。それがこの兄にも通用するかと言えば、決してイエスとは答えられないだろう。眼鏡の向こうの双眸がこちらを睨めつけ、有無を言わせぬ空気を醸し出している。
 聞いてはいけない質問を聞いてしまったらしく、スハイツは一歩後退った。
「武力を持って立ち入る事は侵略行為、侵攻と取られても仕方がない。私は戦争をしに来たのではない」
「そ――そうでした! 僕がうっかりしてました!」
 咄嗟に付け加えて、よりにもよってアベラルドを前に迂闊だった自分を罵倒する。
「こういったやり方でレブナンスを押さえ込むのは好ましくない。だから同盟国のままでいろと言ったものを」
「国境の方はどう片付けるつもりでいるんだい」
「一方的にレブナンスを悪者に仕立て上げて攻撃しようとしている、相応の代償は支払うべきだ」
「国境の連中が納得するかなあ」
「納得させるんだ」
 きっぱりとそう言い切られてしまうと、スハイツにはそれ以上アベラルドに何か言える事もなかった。藍羅とブラッドをからかっておきながら、アベラルドを前にしてしまうとこの様だ。
 国民に罪はないというのにと、声に出さず呻いた。
「欲しい情報はあるけれど、レブナンスに喧嘩を売るほど自意識過剰ではないつもりかな」
 自嘲めいて笑えば、アベラルドは扇を閉じながら足を組み直した。
「何のために私が捕虜になりに来たんだ。お前だったらあっさり父上に放り出されていたろうに。精々父上が焦って攻撃を止めてくれる事を願おうさ」
「放蕩息子で悪かったね」
 気に食わぬ一言だが事実なので逆らえない。精一杯の抵抗を試みて不機嫌面を作ったものの、目の前のアベラルドに敵うはずもなかった。
 扇の端を弄りながら、アベラルドは部屋の外へと視線を向ける。廊下を往来する兵の姿がいくつか見えたがその中に知った顔はいない。ブラッドはまだ戻って来ていなかったし、先にアイザックに進言しに行ったアネモネもまだ戻ってきてはいない。抜け出そうと思えば容易に出来ない事もなかったが、逃亡が目的ではない。
「あとはレブナンスがどこまで加減してくれるか、なんだけど」
「アイザック・レブナンスは手加減を好まない」
「そこが問題なんだよねえ」
 肩を竦めて見せる。いくら盤上遊戯の得意なアベラルドでも、他人の事までは思うようにはならない。考えうる手全てに対応できるだけの余裕はエアドレイドにはないと言える。だからこそ、交渉の余地を残しておきたかったのだが。
「アベラルド、スハイツ」
 入り口からひょっこり顔を覗かせた金髪の男が、嫌そうな顔で手招きした。
「話だけは聞いてやる、とよ。どうするかは閣下の気分次第だろうな」
 そう言って、アベラルドの横柄にも諦め気味のブラッドは部屋へ入り直す。ろくな見張りも置かずに放置していた間抜けではあるが、それはエアドレイドを信用しての事だ。アベラルドは若干不機嫌そうに顔を歪めながら、静かに立ち上がった。紫の上着の裾がそれに合わせて揺れる。
「あ、スハイツはきっと怒られっぞ。そこは俺は知らねェかンな」
「ひどいなあ。他国の公子が怒られるのが分かってるくらいなら、自国民の君がそれを庇ってくれても良さそうなものを」
「ふざけんなコラ、元はと言えばお前の所為だろうが! 何で俺が尻拭いしてやってんだ!」
 隣国の公子に振り回され、いい加減嫌気の差してきたブラッドは、相手が公子である事にも構わず遠慮なく怒鳴りつける。そもそもがあまり気を使うような相手ではない。公子二人のお目付け役を背負わされたような立場にいるのが、屈辱にも似た仕打ちであると感じながらも、何故か反論すらできずにいる己の情けなさに気が付いた。すっかり飼い慣らされている。
 舌打ちしながら中央へ続く廊下を先導した。
「優しい俺が駄目公子に一つ親切な忠告をしておいてやる」
 奔放なスハイツのお守りに疲れ果て、ブラッドは疲弊した声で口にする。無反応なアベラルドとは打って変わり、スハイツは興味津々な様子で食いついた。
「ほう?」
「閣下はご立腹だ」
「少し宥めておいてくれよ」
「やだよ、何で俺がお前のためにそんな事してやらにゃならん」
「薄情だなあ」
 混乱の原因になっている人間に言われたくない、とは流石にアベラルドの前では言えない。更なる混乱を作り出そうとしているのかもしれないし、本心から信用し切る事は出来ない。少なくとも、レブナンスとエアドレイドという国境がある限りは無理な話だ。
「閣下、お連れしました」
 敬礼と同時にブラッドが告げる。いかにも嫌そうな顔をして、アイザックは部屋の中央で公子を待ち受けていた。ブラッドの脇に立つ赤い衣を確認し、溜め息をつきつつ低く洩らした。
「まだ帰ってなかったかスハイツ殿下。モントジエ中将、然るべき処置は覚悟しておけ」
「は、恐縮であります!」
「ブレイズ大佐、貴様もだ。勝手な真似をしてくれるな。貴様の身勝手は筒抜けだ」
「か……覚悟しております」
 通信室の軍事機密を覗き見た事、アイザックの名を騙った事、独断で公子を捕虜にした事。それらを全て合わせていくとアネモネの失態よりも重い。ブラッドは重たくなる気に抵抗しながら、かろうじて顔を上げた。
「エアドレイド公子、護衛もつけずに単独で踏み込んだ度胸には感服する。しかしそれとこれとは事情が別だ」
 呼ばれた公子二人は、さもそれが当たり前であるかのように口を挟む事無く頷く。それに続く目の前の男の言葉が、気分一つで彼らの命運を決定付ける。その事を身に染みて理解した上で、みすみす殺す事はないと期待していた。
 エアドレイド国王による同盟破棄の宣言もまだなく、武力で争い始める前に片付く事ならそちらを選んだ方が互いに得策だと知っている。
「条件次第だ――と言っても良かったが、もう遅い。国境は私の部下の指示で動いている」
 アイザックは組んだ指を一本一本解きながら、低く唸った。