Novel

COMPLEMENT
15 Ridicule Swarm

 指定の時間に、指定の場所で、指定の量の投薬を受ける。
 日課と化していた空白の時間にも、まともに意識を保っていられるようになったのはここ最近になってからの事だった。それが己という個の認識であるのか、もしくは全てと一体化してしまっているのかは定かではない。ただそこにある、と感じられる事が何よりも重要だった。
 呆けた頭で漠然と白い天上を見ながら、程よく倒された椅子の背凭れに身を預ける。あまり冷えすぎていても機械が正常に動かないと、人にとっても丁度良い温度に空調が整えられていたため、意識が朦朧とするのも仕方のない事だ。
 点滴の一滴一滴を眺めながら、いつ頃それが終わるのか時間を計る。袋の中身はまだ半分ほどあったのだから、もう半分程の時間をまた待たなければならない。
 他に作業の詰まっている時ならば、勝手に書類を持ち込んで目通しするくらいの事はやっていたが、何より安静にしている事を求められたので眠っている事が大半だった。その無意識の最中に暴れた事もあるらしいと聞くのだが。
 ブラッドは何もする事のない退屈な一時間を、どう潰そうか考えていた。本来ならばこうしている余裕はないはずだ。しかし投薬がなければ後々困るのは己の方だ。研究棟に従うしかない。
 そして全てが普段通りなら、からかって遊んでいたはずの少女がそこにいたはずだった。
「あれ、姐さんは? いや、他の連中も見当たらないな。何かあるのか?」
 近くで記号と格闘していた青年を捕まえて、尋ねる。ディル・エールは露骨に嫌そうな顔をしてこちらを向いた。
「皇女の付き添いです」
「その姫さんは?」
「国境へ向かわれました」
 悪い冗談を聞いたような気がして呼吸を詰まらせる。今国境と言えば、間違いなくエアドレイドとの国境の事だ。思わず咳き込んで胸を叩けば、ディルはろくでもない哀れみの目を向けてくるだけだった。
 てっきりスハイツ誘拐の件で騒ぎが起きているのかと思っていたが、そのスハイツがここへ来た原因は何だったか。
(待てよ、待て待て。何か肝心な事を見落としてる気がするぞ)
 スハイツがレブナンスに入ったのはおとといの夜だと、トライベルは話していた。護衛もなく、公子が一人で出歩くのは考えにくい。自分達の知らない場所にやはり誰かがいたのだ。加えて、国境の騒ぎだ。
 ブラッドはスハイツが目的のために手段を選ばないタイプの人間である事を知っている。そのスハイツは一体何のために、レブナンスを訪れたのか。スハイツを知るブラッドには、国境の子供一人のために国を動かすような、慈善の好きな公子には到底思えなかった。
(自ら捕虜になりに来たのか?――何のために)
 公子一人を人質にして、国境の子供を黙って解放する事を交換条件に申し出たところでレブナンスに得する事など何もない。精々憲兵の手違いだった事を体面良く片付けられる程度だ。
(要するに、一方的にエアドレイドから喧嘩吹っかけられてるんじゃねェか?)
 そうなると調べなければならない事が出てくる。自分から引き剥がされて、今頃何か面倒をさせられているだろう藍羅の事を考えると気が重い。
 おとなしく投薬が終わるのを待っている場合ではない。咄嗟に立ち上がって点滴の針を無理矢理引き抜こうとすると、慌てたディルに止められた。
「駄目です、まだ終わってません。途中で引き抜かないで下さい」
「じゃあせめて動けるようにスタンド持って来い! 冗談じゃねえぞ、テナウ=ハサハの二の舞にする気か!」
「大佐の勝手を許可するわけにはいきません! また僕が怒られます!」
 今にも泣きそうなディルを傍らに、ブラッドは溜め息をついた。
「分かった、俺が独断でやらかしたって報告しとけ」
「大佐殿! そういう問題じゃありません!」
 どうやらどうしても止めたいらしい。ディルはブラッドの上着を腹に抱えたまま、こちらを睨み付けた。余程サージェに怖い目に合わされたか、首が飛ぶとでも脅されているのか、その態度はいつにも増して強硬だ。こうなると通じる言い訳を考える他にない。
 問題は、どこまで話しても大丈夫かだ。ブラッドは腕を組むと唸った。
「いやーな事に気が付いたんだよ。こいつァ緊急事態だ。俺は俺が持ってる権限の範囲内で動く必要が出てくる。どうなってるかなんて聞いてくれるなよ、首が飛ぶぞ」
「……卑怯な!」
 点滴に必要な台を勝手にまとめながら拳を握り首元でそれを示してみせると、ディルは顔面蒼白になりながら苦し紛れに叫んだ。
「なんとでも言えー。言った者勝ちだ、はははは」
 
 普段足を踏み入れる事のない場所へ潜り込み、ブラッドは当惑した。思い当たった事を誰に報告したら良いのか。普段自分が報告される側の立場にいると、急ぎの際に正常な判断ができなくなってくる。自分より上官は旅団の性質上、アイザックしか存在しない。アイザックの許可さえ取り付ければ大抵の事には自由が利いたが、肝心のアイザックを見つけるにも手間取りそうだった。
 兎にも角にも、今は予感を確信に変える事が必要だ。
「第十二政経中枢防衛旅団のブラッド・バーン・ブレイズ大佐だ。傍受した通信の内容を閲覧したい。これは総統閣下より許可を得ている」
 毅然として告げれば、通信室の連中は案の定あんぐりとした顔で出迎えた。点滴のスタンドを引き摺りながらでは尚の事目立っただろう。室長である中尉が驚いた様子で立ち上がる。
「たっ、大佐殿!」
 通信室からしてみれば、担当官と直接の上官以外開示できない情報だ。それを余所の部隊のブラッドが見せろというのだから、無理な話である。だからこそのはったりだ。
「緊急事態だ。今日の昼にモントジエ中将に向けられた通信だ、それだけ見せて貰えれば良い。複製する必要はない、口頭で伝える」
「本当に閣下のご命令なんですか?」
「そんなに疑うなら確認取ってみろ」
「……念のため申し上げておきますが、複製、書き出し一切厳禁ですよ」
 訝って中尉が尋ねれば、ブラッドはいかにもそれらしく頷いた。互いに首がかかっている事は十分に承知していたから、下手な真似はできない。中尉は完全に困った様子で担当官を呼んだ。通信をかじった事のないブラッドだが、紙に書き出された符号は何とか読む事が出来た。凡そ、その手に詳しい藍羅のお陰である。
 目で追って行くと暗号文らしき符号に当たり首を捻る羽目になったが、一部だけはっきりと読み取れる箇所があった。
「『ヘボ替ワレ』と――なんだこりゃ」
「恐らくアナレス上等兵でしょうな。何分、急ぎだったもので電文が歯抜けしていたんでしょう」
「受け手が下手くそだったのか」
 聞き覚えのある名前に、自分を見張っていた新米兵士の事かと思い出す。いかにも気が短そうだったので、妙なところで納得してしまった。
「あった、多分こいつだ」
 極力少ない文字数で伝えるのが彼らの役割だ。その内容を解読しようと試みて、大変な事に気が付いた。自分は暗号に使っている符号を知らない。折角中身を確認する機会があっても、読めないのでは意味がない。
 これは宜しくない。代わりにその符号そのものを繰り返し見ることで頭に叩き込み、舌打ちしながら中尉に礼を言って部屋を出た。
(まあ大方本部で待機しろだとか、スハイツから目を離すなとか、その手の連絡がどこかから入ってるはずなんだ。エアドレイドの狙いは空っぽになった本部を叩く事だからな)
 そしてそれをどうにか食い止めるための手段を確保しなければならない。アイザックを捕まえた後にアネモネを探し出す必要があった。
(中将が賢明ならまだ本部を出てないはずだ)
 辺りを見回しながらアネモネの姿を探す。すぐ近くに見当たらない事は予想できていたため、すぐに動き回れるように点滴スタンドを持ち上げた。白い廊下を進み、アイザックかアネモネのどちらかの姿を探す。
 電文の内容は大体頭に入っている。アネモネに向けて何かを報告する物だ。それが何を指しているのかまではブラッドには推測するしか出来なかったが、大体の内容は「本隊は本部で待機」で間違っていないだろう。
(アレをスラスラ読めたら魔法も一発で使えるようになるわな)
 見た事のない符号の組み合わせからそんな事を思いながら、袋の中身の減ってきた点滴を一瞥する。
(姫さんと第五師団を前線に出して戦力を集中させて、相手の思い通りに行ってるようには見せてるが――俺をこっちに残したのはこのためか、あのヒゲ!)
 アイザックの思惑の片鱗が分かったような気がして、妙な爽快感があった。一つすっきりした後は、対策を練らねばなるまい。流石にそうなるとブラッド一人で出来る事ではない。普段なら作戦は他の団に任せたきり、命令に従うだけだったため、自分の頭で考えるのが思った以上に面倒な事に気が付いた。
「ブレイズ大佐、何をしている」
 凛とした声に呼ばれて振り返る。それは確かに探していた人物のものだった。
 アネモネがブラッドの無謀を耳にしたのは、ブラッドが通信室を出てからそれほど経っていない頃だった。アネモネは部下に足止めさせていた不良軍人が研究塔へ戻ったと聞いて、スハイツだけに集中できるだろうと思っていた。その不良はいつも通りの投薬という作業をこなして、すぐにアネモネのところへやって来る。
 リブレらが本部を出る直前に寄越してきた報告を確認し、スハイツと合流した矢先にブラッドは現われた。不機嫌極まる表情で応じると、ブラッドはにべもなく言うのだ。
「スハイツ公子の護衛は、俺が引き受けます」
 その言葉を耳にしたスハイツはきょとんとした表情で様子を見守っていた。
 ろくな事を考えてない時の態度だ。アネモネからしてみれば、ブラッドの態度はそう見える。ブラッドも無理を承知の上で伝えたまでだ。しかも通信室の連中と違って相手がアネモネであれば、はったりをかまそうにも嘘がばれるのは時間の問題だ。アイザックの寛大な処置に期待しようにも、アネモネを何とかしなければならない。
「要人の護衛は私に与えられた任務である。大佐殿は自分に信用がない事を自覚すべきだ。自分の役割を全うしたらどうだ」
「正しく、自分の役割を全うしようとしているまでです。殿下には捕虜になって頂く」
「ふざけた事を言うな、ブレイズ」
 荒々しく答えたアネモネに、苦笑したい気持ちを抑えながらブラッドは続けた。
「いーや、ふざけてなんておりませんよ。そのまま殿下を帰しちまったら、それこそみすみす殿下を逃したとして、閣下が嵌められる
「なんだと?」
「俺に解けなかった暗号、なんとなく分かった。『突撃注意、公子を拘束せよ』――そうだろ?」
「大佐、貴様には厳重処罰を下さねばならないようだな。閣下にはどう報告するつもりだ。……しかし、今はそれを言っている場合ではないようだ。原因は私の見落としのようだな」
 低く腹の底から響くアネモネの声に薄ら寒いものを感じながら、スハイツを一瞥する。動揺した様子は見られず、いつも通りの掴み所のない様相で逆にブラッドの方が頭を押さえたい気分だ。
 エアドレイド側の目論みが外れて、少しは焦って欲しいところである。
(それともまだ何かあるってのか)
 アネモネが渋々懐の銃を掴んでスハイツに向けると、スハイツはおどけた調子で両手を挙げ、何も言わずこちらの指示に従った。
「スハイツ、お前が知ってる事喋ってもらうぞ。無事に帰りたかったら従っておくこったな」
「ようやく本意に辿り着いたのかいブレイズ。少し間が抜けてないかい」
「基本過ぎてすっぽ抜けてた。エアドレイドがお前を寄越すわけだよ」
「言ったじゃないか、僕も人質を取られてるって。ああ、ブレイズはその場にいなかったかな」
 苦笑混じりにスハイツは肩を竦める。今の言葉からすると、目の前の少年はただのお使いだ。
 主力を国境に寄せ、本部を手薄にしたところで攻め込む以外の目的は何だ。そこにいるだけで周囲の警戒心を削ぐスハイツを使者に派遣して、エアドレイドは何がしたいのか。敢えてエアドレイドの思惑に嵌ったアイザックの事を考えると、万が一の案はあるようにも思えるのだが、ブラッドには悪い予感しかしなかった。
 国境の藍羅が心配だ。皇女という身分からしてそれなりに扱ってはもらえるだろう、サージェもついていたから深刻に悩む程でもなかったが、良からぬ事の前兆に思えてならない。
 ブラッドは考えれば考えるほどにこじれていく頭で、空になった点滴を勝手に引き抜いた。