Novel

COMPLEMENT
08 Ambiguous Barometer

 足元には寝袋に包まった大柄な男が転がっている。もう一つには少女が寝ているはずだった。今はもぬけの殻で、中身のない寝袋だけがぐったりと床に放置されている。
 スハイツが女の子を床に寝かせるのは嫌だと断れば、じゃんけんでなら文句はないなと丸め込まれた。勝った事でベッドを占有する事になったスハイツは、規則的に響く音に起こされた。耳鳴りを覚えるほどの静寂を裂く、微かなキーボードの音。
 ブラッドは足元で未だ寝ていたので、叩いているのは間違いなく藍羅だと知れた。
 薄暗い部屋の中では時間など分からず、出窓に身を乗り出して外を確認してみる。窓からひんやりとした空気が指を刺し、灰色がかった薄青の空は澄んでいて、確かに朝なのだと感じる。
 白い日差しが僅かに差し込んではいたものの、相変わらず電気を点けなければ足りぬ程暗い病的な空間だった。
「これはいけないねえ」
 藍羅はいつもこんな場所にいるのかと思うと、自然と憐れみにも似た感情が湧いてくる。
 無関心という枷に囚われた少女は、隔離して放置されているようにも思えた。そしてアイザックは閉じ込めた彼女の研究成果と功績を己が物にする。アイザックのやり方を賢明と呼ぶには、スハイツには些か疑問が感じられた。
 その彼女は今何をしているのだろうか。スハイツが今いる部屋の中にいないのだから、その外である事は明白だ。隣が彼女に宛がわれた部屋であった事を思い出し、ベッドから降りてブラッドを跨ぐ。忘れずに上着も手に取った。
 一人で自分の国に帰ろうにも何せこの身分だ。護衛がいた方が遥かに安全だったし、勝手に出て行こうものなら途中でブラッドに止められる。仕方なくブラッドが動き出すのを待つ事にして、それまでに藍羅に一言挨拶をしておこうと部屋を出た。
 夜見た時とあまり印象の変わらない薄暗い廊下が眼前に広がる。いつでもこうなのかと思うと、益々この場所が別棟の名を借りた牢獄であるように感じられた。
「藍羅姫」
 扉越しに軽く声をかけると、不機嫌そうに部屋の中の少女が唸る。
「昼までには帰る事になると思うので、挨拶に」
 告げると、適当に入ってという返答があった。
 遠慮なく扉に手をかけ、殺風景な部屋に踏み入る。必要な機材と生活できるだけの道具を詰め込んだ部屋は、少女には似つかわしくないほど可愛らしいものが一つも置かれていない。執務室か、或いは事務所のようだとスハイツは苦笑する。
 やたらと金を持っている貴族よりも質素で、着飾る事を知らない。尤も、国民が着飾った藍羅を見ようものなら、容赦なく批判をするだろうとは容易に想像ができた。
 無愛想で迎えた藍羅は無言のまま、スハイツの顔を覗き見た。
(人種が違うから? それとも性別? 年だって大して変わらないのに)
 たった三つしか年齢の変わらない少年の考えている事が、藍羅には分からない。
 得体の知れない微笑を浮かべている少年に対し、内心毒づく。
(自然迷彩の事だって、あまり驚かなかった。武器だって言われたら納得できるものなの?)
 藍羅は、それが人の形をしていて、培養槽に入れられているというだけで気分が悪くなった。人に対する扱いではない事は、まだ子供の自分にだって分かる。
 それとも皆麻痺してしまったのだろうか。考えるだけで恐ろしい。
「まだ気になってる? 実験体の事」
 スハイツは笑みを浮かべたまま口を開いた。図星を突かれた藍羅は口を噤む。胸中を探られたようで気分が悪い。条件反射で身を乗り出す。
「だって、あれは人間だったのよ!? あたしには、平気な顔して仕方ないって言えるスハイツ殿下の方が理解できないわ」
 いまだヘラヘラと笑っているスハイツに噛み付くように怒鳴りつける。机に手をつき、立ち上がった勢いで椅子が前後に揺れた。突然の所作に、僅かに驚いた様子を見せるスハイツは片眉を上げて困惑の色を示した。
「助けたい?」
「助けたいわよ、できるならね」
 できもしない事を遭えて聞く意味はあるのか。スハイツの笑みが苦笑じみたものに変わっている事に気が付いて、藍羅はふと顔を上げる。
「手段は?」
 何が目的なのか、スハイツは頬を掻きながら問うた。協力的なのか、否定したいのか、スハイツの本心がさっぱり分からないにも関わらず、藍羅は実験体をどうにか解放したい一身で答える気になった。
 少なくとも彼はブラッドやサージェとは違う。直感がそう告げているのが分かる。
「試しに、研究室のマザーコンピューターにハッキングしてみたけど……駄目ね。ウィルス逆流で慌てて切断したけど……よく考えてみたら、機能を停止させたら彼が死んじゃう。あれが丸ごと維持装置かもしれないし」
「頭より、実際に行動してみたらできる事かもしれないね」
 答えの意図が理解できない。きょとんと目を丸くし、藍羅は自身の頭が追いついていない事を悟った。
 部屋の隅に佇んでいたスハイツが足を踏み出し、耳元でぽつりと呟く。
「確かキーは声紋認証だっただろう?」
「あたしの声で試してみろと仰るのですか」
「少し違うけど、まあそう言う感じ。その気があるなら、ブレイズに見つかる前に行こうか」
 驚きに目を瞠る。随分大胆な手を思いつくものだ――正面突破とも言うが。しかし大胆ではあるが、愚かとも言える。決断に困っていると、スハイツにとんと肩を叩かれた。
 そのまま押し出されるように背を押され、それが強要も同然だと知る。スハイツがと言うよりは、藍羅の優柔不断さを何とかしたいようにも思えて、無下に拒否する事が出来なかった。
(様子を見るくらいなら、駄目だったら大人しく戻ってきたら良いんだし……父様も滅多に来ないくらいだもの、あまり気にしないわよね)
 自らに言い訳するように言い聞かせ、部屋を出る。スハイツがさり気なく背後を気にしていたのが目に付いた。
「……寝たフリで聞き耳立ててたのがバレたかな」
 藍羅とスハイツが棟を出た後、その後方でブラッドが丸めた寝袋を抱えたまま、肩を竦めていたのを藍羅は知らない。
 
 スハイツに言われるまま、昨日の研究棟の前に立った藍羅は呆然と口を開いた。警備が誰も立っていないのだ。幾ら朝早いとは言え、重要機関の警備がザルとはどう言う事だ。全て機械任せにしているのなら、システムをダウンさせてしまえば忍び込めないこともない。
(それともまだサージェが残ってるのかしら)
 少女が徹夜している可能性も否定できなかったが、それにしたって一人くらいは警備を置くだろう。あまりにずさんだ。元からなのか、今回偶然そんな状態に居合わせたのかは分からないが、藍羅は首を傾げた。
(今度父様に会ったら、言っておいた方が良いのかしら)
 出入りした事を自分から口にしたならば、怒られはしないだろうか。しつこく言われそうな気がして、報告は躊躇われた。どちらにしろ、機械に管理を任せているのなら自分の姿もスハイツも姿も、とうに監視カメラに映りこんでいるだろう。頭上に見える黒い箱型の影を睥睨し、嘆息する。
 一歩前を行くスハイツが寂れた棟の扉をゆっくりと押し開ける。冷えたドアノブが手の温度で温まる。静かに開いた扉は開ききったところで止まり、藍羅が建物に踏み込んだ後手動で閉められた。
 こちらも薄暗い建物ではあったが、藍羅が隔離されている場所よりは少し明るく感じられる。実際目に見える白は清潔で気持ちの良いものだったが、それでも暗く感じられるのは、後ろめたい研究をしている場所だという印象が与える気味の悪さが影響していた所為だろう。
 昨日サージェに案内された方向へ向かって歩き出す。
 それまで前を歩いていたスハイツは、今度は藍羅の後ろにいた。あくまで藍羅の意思を尊重するつもりなのだろう。
(何か企んでそうなのが、気になるのよね)
 公子に企みがあるとするのなら、余りに言動があからさまだ。スハイツは、藍羅が彼の誘導に沿って動く事をどう思っているのか。
(何であたしがそんな面倒くさい事考えなきゃいけないのよ)
 子供には無用の心配のような気がして、溜め息をつく。
 奥の部屋を目視し、誰もその前に立っていない事を確認する。本当に一人として警備がいない。
「昨日と比べて静かだね」
 案の定スハイツも同じ事を思っていたらしく、静かに吐露した。
 昨日は脇に人が佇んでいたはずの奥の部屋も、今は認証用の機械が見えるだけで監視する人間はいない。頭上に監視カメラが一つ置かれ、機械の前に立つ人間を映すようになっている。
 機械の前に立ったところで、藍羅は言葉に詰まった。認証するための言葉を、藍羅は知らない。名前だろうか、それとも登録番号だろうか。自分が前に立って登録した覚えがない以上無理な話だ。
「公子、あたしの声で試してみるのもって言ってましたけど……なんて言えば良いんですかね……」
 恐る恐るスハイツの反応を伺う。彼は曖昧な苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「僕はてっきり、姫は少尉に頼みに来たのだと思っていたからね」
「――あたしが馬鹿だったわけですね……」
 指摘が尤もすぎて、藍羅は落ち込んだ。当人に登録をした覚えがないのだから、普通に考えてそうなるだろう。何故そんな簡単な事に気が回らなかったのか、自分でも疑問だ。
 研究棟の鍵が開いていた事を考えると、いつも研究室に入り浸っているサージェなら、棟のどこかにいるかもしれない。何せ彼女が余暇をどうしているのかなど、全く想像がつかないのだ。暇さえあれば研究をしているといった印象しかない。
 周囲を見回し、いつもサージェがいるはずの研究室がどこだったか思い出そうと粘る。実験室からそれ程遠くない、大きな部屋だったと記憶にある。該当する場所はどこだろうかと振り返り、スハイツの背後に大きな影がある事に気が付いて、ぎくりとした。瞬時に硬直した空気に息を呑む。
 見慣れた金髪の男が腕を組み、難しい顔をして佇んでいたのだ。
「ブラッド!」
 いつから、と聞く気になれず一歩後ろへ退がった。聞くまでもなく、最初からそこにいたのだろう。自分がどう動くのか、知らぬ振りで見張っていたに違いない。
 藍羅の反応からブラッドの存在に気が付いたスハイツが、同様に目を丸くしていた。
「いたのか、ブレイズ」
「だから馬鹿な真似すんなよって忠告したのに。大方、殿下が唆したんだろ。安易なバイオメトリクス認証だと馬鹿にするなよ。簡単には突破できない」
 ブラッドは目の前の有り様を一瞥し、深く溜め息をついた。最初から疑わしいと思ってついてきたのなら、ブラッドが疑う相手は藍羅は勿論の事、スハイツもその内にいるはずだ。
 面倒な事に巻き込んでしまったと思うと、途端申し訳なく感じられる。どう弁解したものか考えあぐねていると、隣でいつもの余裕を見せているスハイツが口端を歪めた。
「結構上手く行ってると思ったんだけどなぁ」
「何が目的だ」
 問うブラッドの声色に若干怒気を感じるものの、表情は未だ険しいものには変わっていなかった。誤魔化そうとするスハイツを逃がさずに捕らえておくにも、心の余裕が必要そうに思われる。
 自分は公子に利用されていたのだろうか。藍羅は胡散臭さえ感じられるスハイツに不信感を抱いた。
 当のスハイツはといえば、腰元に手を当ててその場に仁王立ちだ。
「単刀直入に言うなら、僕は父上の使いで来た。それだけだよ」
 いかにも疚しいところなどないといった口ぶりで答える。いっそ清々しい程堂々としていたので、ブラッドは額を押さえた。
「……なら、王の目的は?」
「さあね、僕は何も知らない。僕は父上に利用されてるだけだ」
 剣呑な言葉に語気が荒くなりつつあるブラッドの威圧感に圧倒され、藍羅は一歩退がったところで様子を見ていた。それまでの空気は一転し、辺りは緊張感に包まれる。下手な事を口にして状況を悪化させては事だ。容易に口を挟むのは躊躇われる。
「仕方ないな」
 組んでいた腕を解き、肩を落としたブラッドが手にしたのは、彼の武器だった。どこからか、懐からか――手に取った黒いプラカードが赤い鉛に変質する。大きな刃の剣には銃身が付随し、引き金が柄の近くに位置する。ショットガンとしても扱える大剣のようだと、藍羅は思った。
 一般的に支給されている銃剣は銃にナイフがついているといった具合なので、それと比べるとまるで逆の造りだ。
 ブラッドは無言で赤い刀身をスハイツに向けた。