Novel

COMPLEMENT
06 LOST

 伸びる手は誰のものか、ただ殺されていく感覚だけが鮮明だ。
 僅かに足りない握力で喉元を締め上げていく音が聴覚を刺激する。腕の主が苦しそうに肩で大きく呼吸した。水面の向こうのぼやけた顔が奇妙に歪んで映る。心底悔しそうに眉間に皺を寄せ、腕に力を篭めていく。或いは本当は泣いていたのかも知れない。
 締め付けられる痛みはほとんどなく、ただ茫然とこの行動の意味を己自身に問う。怨まれる理由は大量に心当たる。テナウ=ハサハ、ブライガ、その他暴力による制圧を成した村々。怨まれて当然の事をしてきた。
 腕の主は指の隙間を埋めながら渾身の力を篭めた。首筋を圧迫する力に口から空気が零れる。耳障りな水泡の音が聴覚を遮り、視界さえも白く覆っていく。
『知ってるかお前、零――zeroってのはな、本当は存在しないんだよ。ないものに名前をつけて満足したか。見えないものを信じて、そんな自分も悪くないなんて気にでもなったのか見栄っ張りの偽善者。お前、知っててやったよな。いつもいつもいつも。いつもそうだ、いつもそうなんだよ』
 悲痛な声が喉を震わせる。濁った音の向こうに確かに自分以外の存在があった。言葉一つ紡がれる度に爪が食い込んでいく。
 分かってないなと思った。存在しないのではなく、見えなくても確かに存在している物の事だ。
『面白がってるだけなくせに……面白がってるだけだよお前。自分の犠牲になった奴を哀れんだふりをしてる。同情したつもりで本当は内心安心してる。俺はまだ大丈夫なんだって思ってやがる。レイジだってそうなんだろ。あいつは目覚めなければ存在すら肯定されない、お前はそれを傍観して俺は他愛無い会話ができるだけまだ大丈夫なんだって笑ってるんだ』
 肉を抉る様な痛みがあった。言葉の一つ一つに憎悪を感じたが、何も反論する気にはなれなかった。強ちそれが嘘でもない事を己自身よく分かっている。呼吸ができなくなって初めて苦しいと思えた。
 反射的に腕を伸ばして相手の喉元を掴む。首を絞める力が若干緩み、暫くして理不尽な暴力から解放された。
 馬鹿じゃないのかお前。
 そんな事しなくても良いというのに。
(そうか)
 己の内を抉るような暴言を山のように吐き捨て、深く突き刺したまま他人を罵倒する事でしか存在を表す事のできない少年。
 ようやっと思い出した。長い事己に取り憑いていた亡霊の名前をすっかり忘れていた。
 アルフロスト・メルティ。レブナンスの殺戮兵器ブラッド・バーン・ブレイズが最初に殺した人間の名前だ。
 
 調子はどうだと声が降る。いつもの少女の声だ。
 淡々としていて感情の色を伺わせない、ごく事務的な一言である。機械的な動作音が聞こえる辺り、いつもの調整の最中なのだろうと理解できる。ブラッドは何の言葉を返す事もなくうろに頷いた。
 近頃は妙な夢ばかりを見ている。
 瞼を開こうとしてその重たさに驚き、半覚醒状態にある事を思い出した。もう一度意識を沈めれば夢の続きは見られるのだろうか。怖いもの見たさで見てみたいような気もする。
 殺されるか、問うか。
(そうだよな、柔らかい問いかけじゃ軽く流されて終わりだもんな。聞いて欲しいんだもんな、そりゃヒステリックに叫ぶわけだ)
 諭されてやっと理解する子供そのものだ。暗い場所へ閉じ込め隔離し、突き放し騙し続けるだけで誰も彼の話を聞かなかったのだから仕方がない。
(ふざけんなよブラッド、ずっとお前が目を背けてきた代償だよ畜生)
 自嘲する。不愉快であろうと煩かろうとアルフロストは決して否定できない、否定してはならない存在だ。
 頭上で良いぞと声が聞こえて、ブラッドはゆっくりと目を覚ました。
 喉を擦り、自分がまだ呼吸している事を確かめる。夢の中では知らぬ誰かに声をかけた事もあったはずだ。何か約束を取り付けたようだったが肝心な中身を覚えていない。それが普通らしい夢だよなと実感する事でやっと安堵できる。
 首を締め上げる強烈な痛みは確かに感じている。現実の生身が夢の痛覚を復元しようとしているのか。だとしたら迷惑な話だ。呼吸困難にならなかったのが幸いだ。
 生々しい感触と冷え切った体温は確かに存在していた。どうしようもない夢だ。救いようもない。
「顔色が悪いままだな」
 サージェが苦笑交じりに肩を竦める。強烈な眩暈に併せて耳鳴りが聴覚を圧迫したところまでははっきりと覚えている。その後は恐らくサージェが寝台に押し込んだのだろう、エアドレイドの公子もいたはずだ。
 身体がだるくて起き上がれず目だけで周囲を探ってみれば、スハイツが腕を組んだままこちらを睨んでいるのが見えた。獣じみた威圧感は感じたが、決して怒っているわけではなさそうだった。
「夢見が悪かったみたいだね。気絶して夢を見る事もあるのか」
「そういえば変な夢を見るって言ってたしな。疲れてるんだろう」
 軽々しく言ってくれる。何も知らないから言える事だ。内心毒づいてブラッドは喉元に出かかった苦言を飲み込んだ。
 微かに水泡の音が聞こえる。さっきまでの悪い夢はその所為だろうと思い込む。そうでもなければ気が滅入りそうだった。
「ブラッド、お前が寝てる間にK-01タイプ4がLOSTした駄目になった。もうバックアップはない」
「LOST?」
 驚愕に目を丸くするより早くスハイツが問い返す。
「能力を失った、という意味です。植物状態の人間の脳が死んでしまったのと似たようなもの。私もこういう事は言いたくないが……彼らは人の子じゃないから、能力を失ってしまったら最早無価値だ。親が望んで生まれてくる子供じゃないから誰も必要としない、廃棄するしかない。万が一を思って脳だけを作っていたけれど、駄目になってしまったよ」
 淡々としていて、しかし感情の篭らない言葉の中に少しばかり感情を押し殺している様がよく分かる。それが研究者としてのサージェの姿だ。ブラッドは何とも言えない複雑な感情にかられて上半身を起こす。
 まだ頭がふらついて視界をはっきりと認識できなかったが、何かを喋るにはそれでも十分だった。
「まさか姫さんじゃねェだろな」
「外部からのアクセスの形跡はない。自発的な死か……そうだな、それが一番可能性としては有り得るか」
「それでまた閣下のお咎めがあるってか。えらくご執心だったみたいだしな」
 残った一つがどうなるかは自ずと理解できる。反抗的な態度を取るのは簡単だが、生かされている立場の自分に出来る事は少ない。吐き捨てた言葉を後悔するつもりはなかったが、言ったところで何もできない無力感をただ感じた。
 ふと背に抵抗を感じ取って振り返る。体から伸びる三色のコードの先に、維持装置にも似た機械が繋がっている。
(洒落にゃならんけど、俺じゃないよな)
 己を制御するための装置に疑問を抱いたままプラグを引き抜いた。嫌な夢を見た後だ。嫌な現実もまざまざと見せ付けられる。
 鈍い痺れが首裏を掠る。なんと言う電子ドラッグだったか、慢性的に浸透する薬から逃れる術はない。三本のケーブルを握り直し、小型の挿入口へ繋ぐ。神経を繋ぐような感覚に意識が瞬いた。
(これも姫さんが関わってたな、あいつも可哀相な奴だよ)
 何も自分だけが面倒な事に巻き込まれているわけではないのだ。ブラッドは深く溜め息をついて興味本位の視線を向けているスハイツの方へ注意を傾けた。
「いやいや君達は本当に面白い事をしているよねえ」
 頬杖をついてそう呟くスハイツを睨めつけ、サージェは疲弊した表情で目を瞑る。
「面白そうに語る事では御座いませんよ殿下」
「そうだそうだ、アベラルドお兄様が泣くぞ」
「そうかなあ。僕はあの人はああ見えて意外と冷酷な人だと思うけれどね」
「実の兄弟に向かって結構ヒデェ事言うなお前」
 あまり悪気がない事に安心し、ブラッドは寝台から降りる。指先が未だ痺れた感覚を残し、脳天がちりちりと痛む。構わず上着を羽織り、佇むサージェの姿を探した。口では平気な素振りを見せても実際彼女も疲れているだろう事は簡単に見て取れる。
 正気でいる方がおかしいのだ実際。簡単に命が一つ駄目になる事に慣れ切ってしまっている。
「姐さんもちったァ休んどけよ、姫さんの事なら俺が何とか説得する」
 曖昧に頷いてサージェは椅子に腰掛けた。心情はぐったりとした足取りからも実感できる。
 それ以上何も言えずに、憶測も気休めの軽口も全て閉ざした。部屋はただ沈黙だけが支配した。陰鬱とした研究棟にはある意味相応しい空気とも言えよう。
「そうだ、藍羅姫と言えばあとで挨拶していかないと」
 ぽんと手を叩いてスハイツは軽々と告げる。これは敢えて場の空気を読まないでいるんだなとブラッドは重々に承知した。怒りすらなく呆れるだけだ。機転が利くのか、はたまたタイミングを間違えた話題の転換か。
 放っておいてみればスハイツはよしと声を上げて立ち上がった。どうやら冗談ではないらしい。
「おいおい、今から帰る気か? 外暗いぞ」
「流石に従者が心配するかなと思うしね」
「いつも心配させてんだろが遊び人。正直ここらでさえ治安あんま良くねンだから無理すんな」
「じゃあブレイズが護衛してくれれば良い話だろう? 勿論宮殿までとは言わないよ、国境まで」
 にっこりと笑みながら答えるスハイツに、ブラッドは自らが疲労していく様を理解した。スハイツならば本気で言い出しかねない。がっくりと肩を落として溜め息をつく。無理矢理追い出して追いはぎにでも遭遇されたら堪らない。国交問題にも発展する。それだけは避けなければならない。何よりスハイツが勝手に遊びに来たのだ。
「朝帰れ馬鹿王子、誰が説教されると思ってんだコラ」
「じゃあ姫様に挨拶してこようかな、悪い事しちゃったね」
 心中は複雑だ。からかっている間に自分が手玉に取られている気がしてならない。完全に言い負けた気がして言い返す言葉も浮かんでこなかった。
 サージェが曇った表情を浮かべながら顔を上げる。視線を追った先に扉の前に佇むスハイツの姿があった。
「殿下」
「うん?」
「貴方は頭の良い方だから……まさかとは思いますが」
 躊躇いがちに尋ねる少女の声には覇気がない。続く言葉はある程度予想できていた。自分に予想できる範囲なのだからスハイツにも当然分かっているだろう。サージェが再び口を開くより先にスハイツは頭を左右に振って苦笑した。
「他言無用さ当然ね。レブナンスとは良い関係でありたいし、馬鹿な事はしないよ」
 微笑ともとれない嫌な笑みに覚えがある。ろくな事を考えてない人間のする顔だ。
「それに僕と君らの仲だ。他国の人間を重要機関に入れてくれるような友人に悪いようにはしないさ」
「まあそりゃこっちにもこっちなりの考えがあってのこった、冗談じゃねェから馬鹿な事すんなよ」
「はははは、そうだねブレイズに殺されちゃうね。それは嫌だなあ」
 念押しに強めに出れば、スハイツはまたへらへらと薄ら笑いを浮かべた。本当に了解しているのか、念頭に置いたふりをしているのか、どちらともとれないから性質が悪い。スハイツの背を叩く。軽く咳き込んで公子は部屋を出た。
 何気なくサージェの顔を覗き見ると、サージェはそれ以上何も言うつもりはないのかこちらに背を向けて作業に戻っていた。クリップボードに挟まれた紙に皺が寄っているのが確認できる。
「ブレイズ?」
 追ってこない足音に気付いてか、暗がりでスハイツが振り返る。人気の少ない研究棟の白い廊下に闇が立ち込める。薄暗く引き込まれそうな欲望の深淵そのものだった。部屋の中には何の標本か分からないホルマリン漬けの培養層が並んでいるのだから、ホラーとしての雰囲気なら抜群だ。
 薄ら気味の悪い空気に寒気を感じる。人のいなくなったこの部屋に閉じこもれる神経が分からない。
「あー……ついてこないのか。放っといてやろう、姐さんももう後がねェんだ」
 手元にあるのは最後の子供。彼までLOSTしてしまえばもう次は望めない。下手に激励しても重圧を増やすだけのような気がして、放っておく以外に出来る事はなかった。
 人気のなくなった研究室の片隅で、サージェはぼんやりと資料に目を落としながら呟いた。
「成功か失敗かの二択じゃないんだ、結果が欲しいんじゃないんだ私は。私からの頼みだ、いずれ目覚めてくれ……LOST死ぬ事を選ばないでくれ……」