Novel

COMPLEMENT
01 tempest

 藍羅・レブナンスの半生は退屈と共にあった。専ら本を開いて歴史を頭に叩き込むか、武術を極めるか、それしかする事がなかった。外に出る事が許されなかったからである。自分にはのんびり本を読むしか出来る事がないと分かりつつ、ふと周囲に目を凝らしてみれば皆が藍羅を非難の目で見るのが、幼心に怖かった。何故か分からないからこそ、古びて今にも破けそうな本を捲った。
 近代化を極め、ありとあらゆる物が機械化されていくその中でも、藍羅にとって本は貴重な知の宝庫に違いない。紙程なくならない物はないのだ、と自らの予想の正しさに一人満足し、少女は長い時間を過ごした。
 周囲の非難の理由を知ったのは、そうして本を抱えながら塔の中をうろついていた時に出会った一人の少年が、まだ六つの藍羅の側に居つくようになってからである。
 少年は藍羅に不思議な知恵をもたらした。今まで知らなかった世界を語るのである。本の中にしか存在しなかった場所が、確かにあった。
「どうした、また抜け出してきたのか。怒られても知らねェぞー」
 浅黄色の制服を纏った少年は悪戯に笑んで、藍羅を迎え入れた。塔の中央に設置された温室は唯一藍羅に許された遊び場だ。幼い少女は藍の目を細めて、抱えていた本ごと庭園へ飛び込んだ。
 一度は地方分権制へと向かいつつあったレブナンスが、中央集権国家として再び名を知らせるようになったのは一人の科学者の存在に依るところが大きい。かつての名ある大佐達は謀反の際に、軍属の研究所にいた一人の男を推薦した。それが現在の国王アイザック・レブナンスである。
 地位も力も持たない男を何故推薦したのかと誰もが反対する中で、推した男らには分かっていたのかもしれない。彼は化学魔法の権威だった。
「化学魔法ってのは、化学の実験と同じだ。何も非科学的な現象じゃあない。例えばこれだな」
 少年は何の変哲のない紙とマッチを一本取り出して、藍羅に見せた。
 マッチ棒が自動発火し、炎が紙に燃え移り、やがて尽きる。少年の手の中で消し炭と化した紙を眺めて、藍羅は口を開いた。
「すごい」
「言ったろ、ちょっとした集中力があれば誰にでもできる。タネはこれ」
 少年は黒いプラカードを放って笑んだ。カードには炎を模した簡易記号が描かれている。
「なんだ、インチキだ」
 心底残念そうに呟く藍羅の頭を撫で回し、少年は続ける。
「お前の親父さんが発明したんだぞ、残念がるな」
「父様が? 本当に?」
「嘘ついてどうすんだ、この発明でのし上がったスゲェ人なんだぞ」
 少年がそう言うなら正しいのだろう、藍羅には父が誇らしかった。少年はブラッド・バーン・ブレイズと言った。確かに軍服を着ているが、他の軍人と同じように訓練に追われるところを藍羅は見た事がない。それが不思議でならなかった。
 時々白衣を纏った、彼と同じくらいの年齢の少女が庭園を尋ねてくる。二言三言やり取りの後、ブラッドは姿をけすのがお決まりだ。それまでずっと、藍羅には理解できない小難しい話だと思っていた。その日も変わらず日課をこなす少女はブラッドを尋ね、庭園を訪れる。
「姫様、あまり出歩くとまた煩いお目付け役が、姫様を探して大騒ぎしますよ?」
 今回ばかりは藍羅に向けられた言葉だ。軽く頭を下げる程度だった少女にしては、大変な変わりようだと藍羅は幼いながらに思った。
「お姉さん、研究所の人?」
 ふと思い当たって尋ねてみる。少女は無愛想ではあったが、冷たくはなかった。苦笑混じりの表情で視線の高さを藍羅に合わせる。
「サージェ・クライナと言います」
「物凄い頭良いんだ、なんせ俺と一つしか違わないのに重大な研究を任されてるんだからな」
「余計な一言だぞブラッド」
 補足したブラッドの背をつねり、少女は引きつらせた笑いを浮かべる。しかし藍羅からしてみれば、何もおかしいところなどないように思われた。彼女の周りは大人で固められているが、軍にはまだ子供と思しき人間が多かったからだ。
 サージェは赤い髪に左右それぞれ色の違う目の印象的な少女だったが、これといって関わる機会がなかったので、藍羅にはそれ以上の事を知る好機がなかった。ブラッドだけが近くにいて、ブラッドだけが彼女と対等に話をするのだ。それ以上もそれ以下も他には存在しない。誰もが彼女と対等に話そうとした試しはなかった。
 それでも良かったのだ。藍羅の世界には兄のような存在のブラッドと、本があれば良い。ただこの国のためなれと、知識を蓄える事にしか興味がなかったのだ。
 
 物事が唐突に起きるのは常である。
 あまりの退屈さに突飛な事を考えた事があった。かつてブラッドが藍羅に見せた、化学魔法の簡略化だ。それまで仕組みを理解している人間にしか扱えなかったそれを、専門知識のない人間が容易に扱えるようにしたものである。藍羅がブラッドと会ってから、早くも五年は経っていた。
 一度父に話を持ちかけてみれば、何もかもが簡単に進んだ。彼は藍羅に研究施設を与えた。サージェのいる地下研究棟のすぐ隣だった。
 半ば強制的に研究施設に放り込まれた時と、ブラッドが文句を言いに乗り込んできたのはほぼ同時である。
「自分の娘を、軟禁同然に扱う奴があるか! 俺は反対だ」
 思い切り拳を叩き付けた机が激しい音を立てる。コーヒーが今にも溢れんばかりに波を作り、まるで少年大佐の激情を代弁しているようにも見えた。辺りを見回せば並ぶのは年配の頑固顔ばかりだ。少年に彼らを納得させられる言葉を紡ぐ余裕などこれっぽっちもない。
 サージェはただ萎縮しながら不安そうに末席に座っていた。必要な時に必要なだけの知恵を見せれば彼らは何も言わない。サージェはよく分かっていた。
「何かと突っかかるのだな、ブレイズ大佐」
 腹に響く重たい声が耳を突く。
「お前は優秀だ、優秀だが考えが甘い。自覚しているなら何故黙らない」
 組んだ腕に顎を乗せ、カーキの軍服を纏った男が溜め息のように呟く。ブラッドにはその仕草が嫌で仕方がなかった。馬鹿にされているのか、呆れられているのか、恐らく嫌悪のどれにも当てはまるのだろう。何から何まで片っ端からこの男が嫌いだ。
 しかし言えたものではない。怒りを押さえ込んで押し黙れば、目の前の男は満足げに唸ってみせた。アイザック・レブナンス、ブラッドが一番苦手としている男である。震える拳を握り締め、そのまま大人しく椅子についた。
「藍羅は閣下の娘です。何故あのような薄暗い場所に閉じ込めるんです」
「私の娘だからこそ、私が好きなようにして構うまい」
 問えばそのままの言葉が戻ってくる。ブラッドは歯痒さを感じながらも反論を止めた。押し問答に実りはない。
「ブラッド、お前は確かに心広いが、一度頭に血が上ると収まらないな」
 この場に藍羅本人がいれば良いのに、とは思うが殺伐とした場所に置いて大人しくしていられるような子供でもない。諦観していたサージェも何も言わなかった。
「本題に戻そう。12旅団の設置について異論は」
 誰も何も口にしない。逆らう事に意味がないと理解していたからだ。諦めに慣れた人間が嫌いだ。ブラッドだけがそう思っていても何かが変わるわけではない。数の暴力は恐ろしい。誰もがそれを心の内で唱えているだけなのだ。
 これでは駄目だ、と思う。意を決して机に手をついた。
「それも反対だ。あってもなくても変わらないならいらない。あっても金がかかるだけだろう、市税を圧迫するばかりだ」
 藍羅と同じ青の双眸が見返す。或いは凍えた湖の有様だったかもしれない、恐ろしく冷たい色をしたもののように思われた。
「分からないのか大佐。いくら危険でも、お前がいなければ国の安全は立ち行かない。だからお前を隔離する。そのためだけの旅団なのだよ」
 低く呟いた声は、いかなる武器よりも鋭い刃を持っている。アイザックの一言は国の意思だ。卒倒せんばかりの怒りを抱え、どうにかして落ち着こうと息を呑んだ。
 熱い喉を通る空気は乾いている。それ以上の言葉が出ずに、無言でその場に座る事だけが許された。難しい大人の駆け引きなど興味がない。正しい事と間違った事の区別がつきさえすればいい。ブラッドには二つに一つしかなかった。
「ブレイズ大佐を旅団長に据える。今から少将を名乗れ、同じだけの権限を与えよう」
「悪用しても知らねえぞ」
「ないな、お前にはできない」
 張りぼての階級に何の意味があるというのか。今すぐ殴りかかりたい衝動に駆られながらも、大人しく食い下がる事を選んだ。周囲の空気が生死どちらかを選べと言っているようにも思えたので。
 頭を掻いて、ふと視界に紛れた少女の方へ向き直る。サージェ・クライナは不安そうな面持ちでこちらを伺いながら、ただ大人しく流れに身を任せていた。
 どうしようもない空間だ。洩らすのは簡単でも打ち砕くには相当な労力を要する。肩を竦めて気持ちを入れ替える。冷めた空気を熱するが如く、ブラッドは腹に力を篭めて声を張り上げた。
「条件をつけても宜しいでしょうか。俺が自分の判断で俺の部下を選んでも良いと」
「良かろう。しかし私の目に余るのであれば、お前もろとも処分するまで」
 アイザックの言葉に濃淡はない。淡々と語る言葉全てに意義が存在しないような錯覚を覚える。言わせた事に満足げに、ブラッドは弓形に口端を吊り上げて続きを述べる。
「研究班のクライナ少尉を貰う、それ以外は俺が決める」
 アイザックは無言で笑みを浮かべる。是、の一言を汲み取って内心安堵した。周囲から反対の言葉はなかった。サージェが不本意に従っている事を、誰しも理解しているような素振りだった。当の本人はただ目を丸くして驚くに留まる。否定の言葉も歓迎の言葉も有耶無耶に、ただ流れに飲まれるだけだ。
 ただ流れに流されて、数年が経過するのだ。
 藍羅は研究施設に押し込まれ、誰とも口を利かなくなった。ブラッドは隔絶された兵舎で一人雑務をこなすだけの日々を繰り返し、サージェはそんなブラッドに悪態をつきつつ、一つのプロジェクトを推進しようとしていた。
 セロプロジェクト。藍羅が篭っている間に、人間で試作の繰り返された人体強化薬品の通称から選ばれた、悪魔の実験の一つだ。
「ディル・エール、ディル・エール、ディル・エール」
 名前を繰り返し呼んで、サージェはクリップボード片手に書類を睨んだ。彼女よりも年上の若い研究者は嫌そうな表情を浮かべて、サージェに問い返す。
「繰り返し呼ぶのはやめて下さい、まるで呪文みたいで気持ちが悪い」
「名前を覚えるのは苦手なんだ、あだ名が良ければ何か考えるぞ」
 学者一族きっての落ちこぼれとまで称された青年ディル・エールは、諦めにも似た溜め息をついて肩を落とした。サージェに人の名前覚えさせるのは容易ではない。それはその研究に従属する研究員全員が知っていたし、会う度に彼女が名前を聞いてくるのでは日常会話にまで支障が出る事を、誰もが諦めていた。
 研究以外に趣味のない子供なのだと同僚に諭されてしまえば、ディルにもそう納得せざるを得なかった。
 彼女が口にする名前と言えば、先日設置されたばかりの旅団長ブラッド・バーン・ブレイズと、風変わりで気まぐれな国王閣下の愛娘、藍羅・レブナンスくらいだ。要するに奇抜で特徴的な人柄でないと、名前を記憶するのも面倒らしい。
 困った研究主任にそれ以上の文句は言わず、ディルは手渡された書類をファイルに綴じた。中身を深く読み取ろうと思うほど、賢くもなければ愚かでもない。珍しく機嫌が良いのか、口数の多いサージェに疑念の視線を投げかけるだけで、敢えて口を利こうなどとは思いもしなかった。
「皇女はまだ施設にいるのか?」
 サージェの何気ない疑問に、誰も答えない。不意打ちに戸惑い、誰もが口を閉ざした。サージェの様子を伺ってみれば、別段誰に、というわけでもないらしい。
「いますよ。セロと魔法マナ、同時に新種の開発に勤しんでるようで」
「そうか、少し可哀想だな」
「どういう意味です?」
 何気なく問い、ディルは失敗したと思った。
「可哀想だよ……何も知らずに引き金を引くんだ」
 サージェはいつも通りの無表情で、遠くを眺めながら意味のない言葉を繰り返した。
 その頃藍羅は誰にでも使えるような魔法と相対していた。最初の実験は、戦場で行われたのである。彼女はただ国のためなればと魔法を簡略化した。
 ただ国のためなればと、化学魔法を使ったのである。